神鳥美鶴は当然ながらお嬢様だ。江戸時代から続く由緒ある旧家・神鳥家の本家末娘であり、その神鳥家自体が恐ろしく巨大な組織であるからだ。文化・防衛・医療・技術をはじめとした各分野において、独自に構築された完全自律型連携体制を保持しており、その技術力は簡略化され、武装されない形になって一般社会に降りてくる。そしてその技術も、神鳥家では数世代昔のものである。神鳥家は国内外に多大な――莫大な影響力を持ち、その一端ですら社会の上層のさらにごく一部しか知らないほどだ。
それはそうとして、神鳥美鶴には夫である仁科貴臣とふたりで生活したらやりたいことがあった。実はこっそり新居を、主に警備部門の邸宅スタッフたちがふるいにかけまくって、選抜された物件たちを仁科と吟味しているときから、美鶴はあるノートを作っていた。
「ふたりくらしでやりたいこと」と、美鶴の小さくも筆記体のような滑らかさの文字(払いが綺麗で、角に丸みがある)で題字が書かれたノートは、美鶴がやってみたいことがジャンルごとに整理されて書かれている。
それは「スーパーでお買い物」であったり、「コンビニで中華まんを買って、駐車場で立って食べる」と言った、一般社会で生きる市民からすれば、なんでもないことが書かれている。今はリストのいくつかにはレ点が打たれ、実行済みになっている。
そのうちの一つに、「ひとりで洗濯をして、ベランダで干す」のがある。ちなみに、もう一つ「洗濯ものを一緒に畳む」というのもあるが、それはすでにチェック済である。
未だに「ひとりで洗濯をして、ベランダで干す」の項目がチェックされていないのは、仁科が入浴後についでに回しているからである。
美鶴よりも湯量を使う仁科は、あとに入ることが多い。美鶴と一緒にお風呂にはいることもあるが、週の半分は別々で入浴している。一緒に入浴したときでも、スキンケアを美鶴が行っている間に、仁科が洗濯機のスイッチを押してしまっている。何度か美鶴が自分でもやりたい、と話しているが、なかなか実現できていない。
ふたり暮らしを始めて二ヶ月、実現できていないことにやきもきしていた美鶴は、仁科に明日は自分がやる、と強く言い切ったのだ。
仁科は自分の服が一番軽い靴下でも、一足で一リットルの飲料水と同じ重さである、と話したのだが、それでもやると美鶴は言い切った。ちなみに仁科の手助けはいらないとも言い切った。仁科は少ししょんぼりしていた(美鶴には、まるで玩具を取り上げられた子犬のように見えたが、多分神鳥家と邸宅スタッフ以外には通じない程度の変化である)が、美鶴がしたいことを優先してくれるので、仁科は手を極力貸さないが、仁科が必要だと判断したときは手を貸すことを条件に引き下がってくれた。
それでも一人でやらせてもらえるのが嬉しい美鶴は、そわそわしていた。いつもより少しだけ早く起きて、朝食もいつもより少しだけ早く平らげてしまった。
「ええと……わ、貴臣さんの靴下、こんなに大きいんだ」
「そうでしょうか」
「ええ、とっても。ほら、わたしの足が両方とも入ってしまいそう」
ね?
そう言いながら美鶴は仁科の靴下(足底衝撃分散・着地筋肉反応を吸収。薄くても高重量)を片方手に取り、彼女自身の両足に重ねる。仁科の幅が広く、甲の高い足は、三十二センチの靴でなければ入らない。その足を包む靴下は、美鶴の幅は狭く、甲も低く繊細な構造の二十二センチの足をゆうに包んでしまう。
サイズ比較をしている美鶴が可愛くて仕方のない仁科は、顔が崩れないようにするのに必死だ。誰がどう見ても変わらない鉄面皮ではあるが、ちょっとだけ意識して常の無表情を仁科が作っていると、美鶴はランドリーバスケットを横向きに倒す。どうやら、一番軽い仁科の靴下が重たかったらしく、横向きに倒して洗濯物を引っ張り出すことにしたらしい。
「ええと……わたしのをネットに入れるんだっけ……?」
「はい。美鶴様のをネットに入れてください。私の衣類とともに洗うときにネットを使わなければ、美鶴様の衣類にダメージが入ってしまいます」
「そうなの? 貴臣さん、たくさん体を動かすから、洗剤も少し強力なのかしら」
不思議そうに首を傾げつつ、美鶴は仁科の服と自分の服を仕分ける。そのまま美鶴は、自分の服を洗濯ネットに入れる。どのネットを使えばいいのかは、その都度仁科に確認をしていた。ショーツとブラジャー用のネットを手渡しながら、仁科がそれとなく視線をそらしたので、彼なりに美鶴が下着を見られたくないだろうと配慮したのだろう。美鶴はそんなさり気ない気配りがとても嬉しい。
美鶴が自分の衣類はすべてネットにいれて、ドラム式洗濯機――・静音性抜群(超低周波吸収設計)・仁科専用布(最大9kg)の回転耐性に対応・自動重心補正機能付き(仁科シャツ単品と美鶴のパジャマが同時に洗える)――通称コンパクトサイズ洗濯機にいれる。仁科サイズの靴下をそっと洗濯槽にいれ、インナーシャツをいれる。この時点で二キロである。
仁科は自分で行うよりもずっとゆっくりで、丁寧に美鶴が仁科の衣類を入れていくのを見守る。ちょっとだけ重そうに持ちながら、重たい、なんて言葉を出さない美鶴は、仁科の長袖のワイシャツを広げる。夏用に目に見えないメッシュ構造で通気を制御しているそれは、それでも二キロ弱ある。冬用になると三キロ弱であるのはここだけの話である。
美鶴の服ではまず感じられない、ずっしりとした重たい服を両腕に抱えて、美鶴はマジマジと白いワイシャツを見る。そっとボタンが外されているシャツを広げたかと思うと、おもむろにそのシャツを服の上から羽織りだす。
仁科が驚いて、流石に少し目を見開く。美鶴は肩の位置がまったく合わないぶかぶかのシャツを羽織ったまま、ふわりと笑う。
「貴臣さんって、こんなに大きいのね」
「っ……鍛えておりますので」
「それもそっか。ね、みて。貴臣さんのシャツ。腕をこんなにまくっても、全然わたしの指が出てこない」
きゃらきゃらと笑う美鶴は、やっと彼女の黄緑色に塗られた爪の先が出てくると、楽しそうに笑い声をあげる。
このシャツも重たくて、なんだか貴臣さんにぎゅっ、て抱きしめられてるみたい。
そう笑う美鶴に、仁科は思わず彼女が羽織っている自分のワイシャツを引き千切りたくなる衝動に駆られたが、その光景を見せてしまえば美鶴が悲しむということも分かっていたので、仁科は冷静になる。
「私は、常に美鶴様の望みを叶えたいと思っています」
「ん? ふふ、貴臣さん、わたしにとっても優しいもの。いつもわたしのやりたいこと、叶えてくれてる」
「そうでしょうか。今は美鶴様はこうされたいのではないでしょうか」
そう言い切ると、美鶴が何かを言う前に、彼女を正面から仁科は柔らかく抱き寄せた。