二月も終わりの頃、身を切るような冷たい風が吹き抜ける日がだいぶ少なくなり、暖かな春の日差しを感じられる日が増えてきたころだ。本革素材の防風性にすぐれた手袋を使う機会も減り、暖かなダウンジャケットもだいぶ着用頻度が下がってきた。体温調整が苦手な美鶴を思って、仁科が三首を出さないように、と美鶴の首にマフラーをまいてくれるのが減ったことを、少しだけさみしいと美鶴が思い始めた今日この頃だ。
気温が三月下旬ほどだとニュースの気象予報士が告げた日、美鶴は三月かあ、と思わずひとりごとをこぼす。
美鶴にとって三月といえばひな祭りだ。年の離れた兄たちは、三人とも男だったということもあってか、祖母も母もとりわけ豪華なひな人形を用意しているのだ。敷地内の商店街も薄桃色に飾られて、華やかになるのだ。三月三日の桃の節句には、神鳥本家一族はもちろん、邸宅内スタッフとその家族全員にひなあられとちらし寿司、白酒がふるまわれるのだ。未成年は甘酒である。この日も仕事がある美鶴と仁科も、もちろん食堂でちらし寿司を食べる予定だ。
おそらく邸宅内ではもう七段飾りのひな人形が飾られているだろう。美鶴は、このタワーマンションの一室にもひな人形を飾ってもいいかもしれない、とここ最近考えていた。とはいえ、実家ほど広くはない街中のマンションである。美鶴の実家で飾るような、七段の豪華なものは飾ることはできないだろう。それでも三段飾りか親王飾りはできるのではないかな、と思っている。美鶴の細く白い指は、ここ最近仕事の休憩中にひな飾りのウェブサイトを見ていた。
……実は邸宅スタッフたちは、みんなそれを知っていた。当然である。神鳥美鶴は神鳥家の珠玉のお姫様なのだ。彼女が不快に感じない範囲で、あらゆる行動を見聞きしている。そのためにただでさえ邸宅内では、世間よりもだいぶ進んでいる技術が、ますます発達したのは言うまでもない。
飾りやすく、邪魔にならない大きさのひな人形は、すでにスタッフたちの手で作り上げられている。仁科が持っても、規格外に強い一三〇キロの握力で握っても壊れず、それでいて美鶴が持っても重さを強く感じない素材で作られた親王飾りだ。伝統的な人形の顔立ちであるべきだ、という勢力と、今風の顔立ちでもいいはずだ、という勢力に二分されたが、間をとって、横長の楕円形の目に小さな円の口、ほんのり頬をピンクに染めた顔立ちになった。大きさも男雛が八センチ弱、女雛が七センチ弱だ。ひな人形の背後に飾る屏風も、高さは九センチ程度だ。台座は奥行き九センチ、幅が十八センチとコンパクトサイズである。どことなく男雛が仁科のような顔立ちで、女雛が美鶴のような顔立ちに見えるが、それは気のせいであるというのが制作班の話だ。
ちなみに、これのレプリカが邸宅内スタッフの売店や商店街の雑貨屋に並んだ瞬間、一家族一つ限定だったはずなのにあっという間に完売したのは言うまでもない。
……閑話休題。
美鶴がお風呂から出て、スキンケアもヘアケアもすませてリビングに戻ると、ちょうど仁科が戻ってくるところだった。仁科は美鶴を自宅まで送り届けた後、ふたりが住む桜埼グランフォレストタワーの近くにある桜通り商店街に向かっていたのだ。ひな祭りイベントの飾りつけで、荷物の運び入れを手伝ってほしいと頼まれたからだ。人一倍力のある仁科は、こういった商店街やマンションの季節ごとの飾りつけに協力することが多いし、美鶴も微力ながら手伝っている。
リビングの一角にある、背の低い本棚の上にあるインテリアオブジェをずらしてスペースを作っている彼に、美鶴はなにか飾るのかと尋ねる。仁科は口をあけたままのリュックサックから、小さな箱を取り出すと、それを丁寧に開ける。その中にあったのは、親王飾り形式のひな飾りだった。仁科が警備部門の講評を書いているときに、制作班が季節行事だから、と渡していったのだ。仁科も美鶴が何も言わなくても、彼らは作っているだろうな、というのは薄々感じていたので、感謝を述べて受け取ったのだ。
「わ、かわいいお雛様だ」
「はい。有志のスタッフで作ったそうです。季節行事だから、と渡されました」
「ふふ、桃の節句にはお雛様がいないと。ね、貴臣さんもちらし寿司は食べた?」
「はい、いただきました。むきえびを多くいれていただいたようでした」
「いいなあ。わたしは錦糸卵がいっぱいあったの。ふふ、とっても黄色くて、にんじんとむきえびが際立ってたなぁ」
「錦糸卵は片栗粉をいれると破れにくい、というのも美鶴様と生活するまでは知りませんでした」
「え、そうなの? 片栗粉?」
美鶴が不思議そうに大きな目を瞬かせて仁科に尋ねる。薄紫色の大きな目で見つめられて、仁科は金色の目を彼女に向けて話す。仁科が美鶴と生活するにあたって、彼に調理技術を叩き込みまくった料理人たちの言葉を思い出す。
「はい。破れにくくなる、と言われました」
「そっかあ……たしかに錦糸卵ってすごく薄いものね」
「はい。ですが、それを知っていても、私は時折失敗しますので、料理スタッフの技術の高さがわかります」
「貴臣さんでも失敗するの? わたし、見たことないけど……」
「……美鶴様にみられる前に、証拠隠滅をしておりますので」
「あ! 食べてるの!?」
ずるい!
頬をぷうっ、と膨らませて文句を言う美鶴。普段は見せない子どものような表情に、思わず仁科は鉄仮面を緩めてしまう。とはいっても、ほとんど常と変わらない無表情なのだが。
仁科は慎重な手つきで台座と屏風を飾り、台座の上に男雛と女雛を飾る。ちょこん、と台座の上に乗った、丸みを帯びた二つのひな人形は、部屋の天井照明を受けてつるんと光っている。穏やかな表情のひな人形を見て、美鶴はそれがどことなく仁科と自分に似ているのではないか、と思う。どちらも白い肌ではあるし、伝統的な髪型なのだけれど、男雛の髪色が真っ黒ではなく、仁科の緑がかった黒髪だったからかもしれない。
そう思うと、美鶴は小さな手のひらサイズのひな人形が愛しく思えてくる。飾られたひな人形を、人差し指でやさしく撫でている美鶴を見た仁科は、よほど気に入ったのだろうと思うのだった。